どこでも、楽しく、たくましく。

『何者かにならずとも生きていける時代』における幸せは半径3kmにあった

20代は、ずっと“何者か”になろうとして、
背伸びしていた。



でも、何者にもなれなかった。


※ちなみに、ここで言う「何者」の私なりの解釈は、
・テレビや雑誌、ウェブの記事などに掲載されている。
・起業している、経営者、個人事業主。
・業界の中で有名。
・高度な専門的技術を持っている、国家資格で仕事をする人。
・トリリンガル、海外在住者
・稼いでいる(年収1000万とか)
・ツイッターでいろいろ言い切っている人、フォロワーが多い人
などなど・・・





息苦しさを感じつつ、気づけば32歳になろうとしている。





今の心境といえば、
もう何者かになることを考えること自体がなくなって、
すっきり充実した楽しげで幸せな日々を過ごしている。



この10年を振り返ると、歳を重ねたからなのか、時代が変化したからなのか、思考の変化がみて取れる。


それと同時に、時代の変化も見えた気がした。

そうそう、最近は、こんなつぶやきも目にします。

周囲と同じ、空気を読むことから解放される自由を求め、
奇抜なことが個性的であるとされた時代。


特異性では差別化できなくなってきて、
むしろ周りと一緒でもいいんじゃね?となって、
「あなたはそのままでいい」「ありのまま」ブームの時代。


さらに、もはや他人とかありのままを気にする時点で自分らしくなくて、
ただただ淡々と生きているのがかっこよいのでは?という時代。



以下、そんな『何者にもならなくてもよくなっている時代』に生きているありがたみを詠んだポエム。
(心の空の晴れ具合を背景で表してみました)

(10年前)何者かにならねばいけないと信じていた。ただ辛かった。

(8年前)自分は何者にもなれないかもしれないと不安だった。

(5年前)多分自分は何者にもなれないんだろうと感じた。

(4年前)でもまだ、何者かになることを諦めきれなかった。

(3年前)しかし、何者かになれそうな当てはなかった。

(2年前)だから、何者でもなく生きるしかなかった。



(1年前)そのうち、何者かになろうと思わなくなってきた。


(3ヶ月前)何者でもなくても、十分幸せだなと思えた。


(1週間前)むしろ自分が何者でなくても、
誰かの役にちょっとでも立てるなら、
十分満足できることを知ったんだ。




そう、もう誰も気にせず、
ただただ、自分の内なる声に耳をすませば、
聞こえてくる、幸せのエチュード。




(こ、これは…ちょっと気持ち悪い!)




あらためて。


幸せを感じられる要素は、
案外、半径3km以内にある気がする。




近所の公園、
週末に行くヨガスタジオ、
どうもと言って入れるカフェ、
歩いていたらすれ違う知り合い、
野菜をおすそ分けできる友人宅、
土を触って地に足ついた感覚を味わえる畑。



もちろん、東京にも行くし、海外旅行だって好きだ。
月に行く誰かがかっこいいなと思ったり、
メジャーリーグで活躍する同世代に圧倒的な差を感じたりもする。




それでも、お散歩中のおじいちゃんに息子が話しかけたり、夫が借りてる畑のボーボーになった草むしりをしたり、誰かが困ってそうな時に検索して情報を調べてあげたり、別にありがとうと言われたいがためにやってるわけではないのだけど。


誰かがちょっといい気分になってくれたら十分と思えるのです。



ふと幸せだなあと感じられるものは案外家の近くにあるものだ。




絶対的な距離は近いはず。


ま、こう思えるまで10年くらいかかったけど。
長かった!


おわり。

by
1987年生まれ 山形県出身・滋賀県在住 どこに移動しても、楽しくたくましく暮らすのが目標。そのために、主に仕事やプライベート、心地よい居場所作りをテーマに研究中。
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