その日は、第3回目のフォントの会。
会場でいつも使っている「みんなのハナレ」で使うフォントを本格的に作ることとなり、この日は周辺を街歩きして街の歴史を学び、それらを踏まえてフォントのコンセプトを考えようという時間だった。
「どんなフォントにしようかな?」と考えていたはずなのに、気が付けば、“まちづくり”がなぜ違和感があるのかについての話に。
結果的に、町歩きで気づいた“まちづくりへの違和感”からの学びがフォント作りの指針となった。
目次
草津市は、江戸時代、東海道と中山道が出会う草津宿として賑わっていたそうだ。
当時、宿場町があったところには、瓦屋根の店舗やマンションなど、宿場町風の景観を保つような建造物がいくつも見られる。看板などのフォントもそれらを意識して使われているものもいくつか見られた。
街歩きに出る前に、ゲストの方が言っていた。
「フォントをどれほど昔っぽいものにしても、それっぽいものにしかならない。質感や時間の経過、その佇まい・・・当時と似たようにはできても、それっぽくなるだけ。」
フォントだけでなく、仕事でもそう。便利なツールが溢れる世の中では、素人でもそれっぽいものが簡単にできる。私も絵や文章でお金をもらうことがある。誤解を恐れず言えば、独学で多少勉強して、最新の便利ツールを使いこなしてそれらしくなっているのだ。そこで感じるのは、どこまでいっても、やはりそれっぽい感が抜けないということ。嘘ではないけど、どこか本物ではないのだ。
ここまでネットが発達した現代では、嘘もすぐばれるようになった。
SNSや広告、商品も、それっぽいものより、本音や本物、エビデンスが求められている。
では、当時を精巧に再現したら、それで良いのだろうか。
そうではなかった。
よくある“まちづくり”に対する私の違和感は、以下の2つだということが、参加者とのディスカッションで明確になった。
・主語が大きすぎて、自分が入っていないこと
・私たちがいるのは今の日常と未来であるはずなのに、やたら昔にこだわりがち
まず、「主語が大きすぎて自分が入っていない」ということについて。
まちづくりは、「〇〇市民がより良い暮らしを」という風によく言われるが、確かに、カテゴリー的には市民ではあるが、そこにはパーソナルなものは何もない。街中で、日本人!滋賀県人!草津市民さん!と声を掛けられても振り返らないように、そこには当事者感が全く感じられない。
わかりやすいのが、“平均値の罠”である。
大雑把ではあるが、世の中に年収100万の100人と、年収700万の100人がいるとする。ここでの200人のグループの平均値は年収400万。「だいたい年収400万がアベレージだよね」と言われても、誰もしっくりはこない。その平均値には誰もいないからだ。
そんな感じで、妙にカテゴライズされた大きい主語には、みんな入っているようで、誰も入っていなかったりする。だから響かない。
こんなことを言っていたら非市民と怒られそうだ。実際、こんなにチンタラ言わずに町のためにいろいろ頑張っている友達が何人もいるが、本当に尊敬している、本当に。
これが、自分の家のことなら私でも一生懸命になれる。
我が家はまさに自分が当事者であるからだ。将来に想いを馳せ、いろいろな物件をあたり、好きな家具を揃え、外観を綺麗にしたいはずだ。それは自分の“好き”をある程度自由に選べるからだと思う。その好きをかろうじて選べるとすれば選挙なのだろうけど、選択肢に好きがないとどうしようもない気もする。
まちづくりが昔にこだわりがちな点について。
江戸にタイムスリップしたら、江戸江戸感がすごく好きになるかもしれないけど、あまり触れたことがないそれっぽいものに対して“好き”とか“愛着”は湧きにくい気がする。それを強制されたらもはや嫌いになる。
それであれば、今とこれからを生きている人が、この時代において“なんかいいよね”と思えるものを、そんなに広すぎない半径で実践していくのがいいのではないかという総意に至った。時代が変われば、価値観も可愛いも変わる。とても“まちづくり”なんてビックワードではないけど、「自分が住んでる近くにちょっとステキなお店があったり、綺麗に整ってたらいいよね」くらいの感覚が、この町に参加する上でちょうどいいのだと感じた。
そんな街歩きして得られたまちづくりへの見解から、フォントも同様に、この場所の歴史と何が何でも紐づけるわけではなく、当時の人々に敬意は示しつつ、今ここにいる“私”がいいなと思える表現をしていけばいいのではないかと意見がまとまった。
心の底からいいねと思えるものの周りには人が集まる。人が集まれば、経済が動く。だから、最初のいいねは、私個人がいいねと思えるもので十分なのだと分かった。うわべではなく、本当にいいねと細胞レベルで思えるものである。
ということで、やっとフォント作りの話に入ろう。
参加者の言葉から、「みんなのハナレ」という場所やそこにいる人たちにいいねと思えるワードをピックアップした。
①ぐいぐいこない、巻き込まない
②自然体、ゆるりとしている ひっそり、存在感が大きすぎない
③パブリックではない、パーソナルがある
④敷居は高すぎないが、ちょっとした憧れ感
⑤頼まれたらやらないが、自分からやるならいい
これらをフォントで表現したらどんな感じだろうか。
①ぐいぐいこない、巻き込まない
きっと、すごい太字ではないのは明らか。めちゃくちゃ丸字とかカーブがきつい文字でもなさそう。
②自然体、ゆるりとしている、ひっそり、存在感が大きすぎない
なめらかで、力の入っておらず、濃くなく文字が大きすぎない感じだろうか。
③パブリックではない、パーソナルがある
綺麗に整ったTHEフォントというより、手書きフォントが近いだろうか。
④敷居が高すぎないが、ちょっとした憧れ感
これも大事。あんまり生活感溢れるのも良くない。憧れの雰囲気に、手を伸ばしたら手が届きそうなくらいの距離感か。
⑤頼まれたらやらないが、自分からやるならいい
草津の路地裏界隈で何度か聞こえてきた声。この想いを文字自体にはどう反映したらいいかわからず、一晩考えた。
結論、このフォント作りに関わってくれる人たちが結果的にそう言う人になるのかなと思っている。タイガーマスクも、ランドセルを子供達にプレゼントしてくれと市から頼まれてやったらかっこよくないし、モチベーションが上がらない。でも自分が勝手に好きでやっているから、あまりお金のことなどは考えないし、そんな自分が好きだし、関わる人も好きになる。
この、「頼まれたらやらないけど、自分からやるならいい」をもう少し掘り下げてみる。
物事は頼まれた瞬間に、主導権や評価者は相手となる。
頼まれるから『仕事』となり、報酬が気になり、いかに労力をかけないかという思考になる。なぜか損得思考に陥りがちなのだ。それに、仕事が入り口の相手とは、どこか超えられない壁が勝手にできあがってしまう。
でも、趣味なら全く逆だ。どこまでも時間とお金をかけ、自分主体であり、効率なんてout of 眼中。趣味でできた友達とはお風呂や食事も一緒に過ごしたいし、朝まで飲むことになってもパワハラとは思わない。
だから、フォント作りに来てねと誰かにお願いするのはやめることにした。
今後に向けて、実際にフォントを作る流れも話し合った。
・コンセプトを元に、参加者がいくつかの文字を担当し作り上げる案
・みんなのハナレの発起人がさらりと書いた下書きを、コンセプトを元にみんなで修正する案
後者の方が想いがあるし、頼まれてやる感もない。
なによりみんながいいねと思っているキーワードが、その人の文字がぴったりなので、彼女の文字をベースに進めることにした。
半径5メートルくらいで、パーソナルに、でも本当にいいねと思えるものを作っていけたらいいなと思っている。
以上
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