どこでも、楽しく、たくましく。

浦幌町のお母さん牛が教えてくれた、誰かの役に立たなくてもいいという話。

経産牛と自分を重ね合わせていた。

「経産牛(けいさんぎゅう)」とは、お産を経験したお母さん牛。

一般的には、経産牛は出産回数が多くなるほど価格と味が落ちるとされ、お肉としての価値はあまり高くない。ミンチになることも多く、どこでどう流通しているのか分からないそう。

あぁ、私と一緒だ。何頭も価値ある子牛を生んだ母は役目を果たしたのだ。

お母さんは世界で一番尊い仕事ですよ、なんて平気で世間はいい顔してくる。でも現実では、家事メインで仕事はそこそこのような生活だと、自分の社会的価値とは?世の中の役に立っているのだろうかとふと考えてしまうこともある。

そんなとき、お母さん牛は、やさしく私の体に語りかけた。

その日は、誕生日に子供が熱をだし、リベンジでの夫とのランチ。美味しいお肉が食べたいと思っていたので、近場でお肉にこだわっているイタリアンを選んだ。

経産牛は何度か食べたことがある。噛み応えがあり、お肉を食べている感が強い印象。その時のお肉は、北海道は浦幌町のお母さん牛で、熟成期間が30日ほど。割と脂が多くあるイチボで、柔らかく食べられますよと言われた。

お肉の焼ける音と、食欲をそそるにおい。期待はどんどん高まっていく。

きっとこんな感じで全力で肉の焼けるにおいをかいでいた

そして、目の前に運ばれたお母さん牛をいただくと、柔らかく繊維がきゅっきゅっとしていて、脂の甘みとうま味が強く、なかなかチャーミングなお肉だった。

具体的な人に例えるのもどうかとは思うが、ひと昔前はアイドルとして大活躍していて、アダルトになって第一線は退いて大人な円熟味を増したけれど、やっぱいかわいさがちゃんと真ん中にあるという感じ。

あぁ、お母さんはこんなに美味しいのか。
無心に食べ、肩の力が抜けて、幸福感が体中に満ち満ちた。

「最後は、誰かを喜ばせること、誰かの役に立つことが幸せなんだろうか」

そんな問いがふと、私の頭の中によぎる。

一見、正義である。でも、何か引っかかるものを感じた。

別に、お母さん牛は生き物として生まれている以上、最後まで生を全うしたかったはずで、食べられたかったわけじゃないのではないか。

おいしく食べられてよかったよねというのは、尊い命をいただいている申し訳なさを正当化するための、人間の解釈なんじゃないかと思った。まあ当牛に聞いてみないとわからないけれど。

とすると、本人は幸せなんだろうか?

そんなことを考えていると、20代の頃、誰かに影響を与えたい、役に立ちたい、人を喜ばせることが幸せとか思っていた自分を思い出した。
あの頃は、とても苦しかった。何者かにならないといけないことにがんじがらめで、でも何にもなれなくて悶えていた。

大学時代は、柔道部のマネージャーをして選手のサポートすることが嬉しいと思っていたし、MBAに通っていたころも、自分でやりたいことがなくて、誰かのやりたいことをサポートすることが志だと思い込んでいた。
就職してからは、銀行に勤め、どこかの会社の事業をサポートした。結局そこでも誰かの土俵で仕事をしていた。

自分なりに、社会人として仕事を全うしていたが、苦労しながらも自分のやりたいことをやっている人、自分がステージの真ん中にいる人がとても羨ましかった記憶がある。

今、アルバイトで卒業アルバム制作の仕事をたまにしているが、部活動のマネージャーの写真を見ると、君はバッターボックスに立たなくて本当にいいの?と思うことがある。

もちろん、それが楽しくて仕方ないという感じが伝わってくるから余計なお世話だと思うのだけど。やっぱり誰もがその人の人生において主役であってほしい。いつでもプレーヤーでありたい、出たがりな性格ゆえなのだろうか。

われ先にと押しのける人々

もやもやを抱えながらも、出産を経てフリーランスとなり、30代後半に突入、他人と比較する機会はほぼなくなった。日々の細かいタスクに追われ、悩む時間がなくなったという方が正確か。でも、それなりに好きなことをやって、とても軽やかに過ごしている。

そしていま、20代の時のわだかまりが、お母さん牛の上質な脂に、少しずつ溶かされている。

そうか、あの時は無理に他人軸で、誰かの喜びのために、自分を奮い立たせようとしていたから違和感があったのか。

自分が人生の真ん中にある人、自分がバッターボックスに立っている人、自分の喜びを大事にしている人、やりたいことをやっている人は、どこか見ていて楽しそうでウキウキわくわく感が伝わってくるし、人が集まってくる。所ジョージみたいなイメージ。

常に自分が世界の中心で楽しそうな人たち

出産で良くも悪くも高速道路から一般道に降りて、田舎道を生きてきた。

肩の力が抜け、面の皮が厚くなり、そばかすもアホ毛も気にしなくなってきたオバサンは今、おいしいお店を食べ歩き、コンプレックスだった料理も、その時に食べたいなと思うものを作れるようになった。1年前に始めたスイミングは500メートルは余裕で泳げるようになった。体験農園を運営し、自分が食べたい野菜を育たり、仲間とお米を育ててもいる。仕事も、好きな分野でお金をもらえている。

「人生で一番、人生を楽しんでいる気がする」そう思った。
この前、自分より年上の人から、あなたといると元気になると言われ驚いたことがあった。銀行に新卒で入ったときは、先輩から「死んだ魚の目をしている」と言われた私がである。

お母さん牛を食べながら、少しは楽しそうに見えるのかなと嬉しくなった。


自分が楽しんでいることで、巡り巡って誰かの役に立つのが自然なのかもしれない。

社会課題の解決のために奔走したり、ベンチャーで駆け回っている友人たちも、世のため人のためにすべてを注いでいるが、結構プライベートも充実していたのを思い出す。やはりアンパンマンも自分が元気じゃないと周りを助けられない。

夫が作ったしょくぱんまん

そういえば、7~8年前くらいに、京都の東本願寺前の通りに、こんな言葉があって、ひどく共感したのを思い出した。

「役に立たなくていいです 人は何かの役に立つために生まれてくるのじゃないのです」


そう、別に誰かの役に立つために生まれてきたわけじゃない。もちろん、誰かの役に立てるのはものすごくうれしい。でも、それが生きる理由になってしまうと、どこか自分を苦しめてしまうこともある。自分の人生は自分のためのもの、自分に主権を持ちながら、楽しむことが一番なのではないか、そんなことを思ったのだ。

真宗大谷派の僧侶 で、長年養護施設長を務めた祖父江文宏の言葉

現役世代はなかなか余裕はないとは思うけれど、ふとしたタイミングで、自分が楽しいことってなんだったかなと思い出せたらいいなと思う。

別に起業して活躍したり、表立って活動している必要はなく、行きたかったカフェでゆっくり本を読んだり、庭で家庭菜園をしたり、大切な人と美味しい食事をするのでもいいと思う。

忙しい中でも、なにか楽しさを感じられるようなことがあったら、人生はまだ自分のものだ。

自分の理想を追い求め、不機嫌をまき散らして、職場の仕事効率をさげるよりは、機嫌よく過ごし、ほがらかにたたずんでいるほうが、よっぽど世の中の役に立っている。自分が楽しんでいたらそれが一番。(家庭内での自分を振り返ると、怒ってばっかりで反省ではある)

今年食べた美味しいお肉たち。美味しいもの食べて不機嫌にはならない。

もし浦幌町のお母さん牛と話せる機会があったら、あなたのお肉とってもおいしかったよ、ちなみにあなたの楽しみはなんですかと聞いてみたい。

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1987年生まれ 山形県出身・滋賀県在住 どこに移動しても、楽しくたくましく暮らすのが目標。そのために、主に仕事やプライベート、心地よい居場所作りをテーマに研究中。
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